イエスが残したもの - 秋月庵
物語「イエスが残したもの」
目次
(著作者のコメント)
(2019.01.27)
(ヨセフとマリアの結婚)
(2002.10.14)
(イエス、宣教を開始する)
(2002.10.14)
(人生と神の業)
(2002.07.23)
(偶像崇拝か偶像崇敬か)
(2002.07.23)
(自衛と復讐)
(2003.01.27)
(イエスの死)
(2002.08.15)
(イエスの復活)
(2002.10.10)
(復活の物語)
(2003.04.10)
(守るべきルール)
(2004.11.06)
(教会とは)
(2007.03.07)
ただし書き

【こめた思い】

私が、聖書を読む中で、感じたもの。

私が、教会の勉強会で、学んだもの。

私が、主日のミサで、感じたもの。

それは、まだ、ささいなものかも、しれない。

だけど、そんなささいなものでも、多くの人と共有したい。

そんな思いで、物語を公開しています。

もし、物語から、何かを感じとっていただけたら、とても幸いです。

 

【気を付けて欲しいこと】

「信心」、これは個人的な信仰を表す言葉です。

ここで公開している物語は、私の信心を書きとめたものです。

私は、まだ、信仰が浅いカトリック信者。

私は、まだ、理系で、文系の才能はやっと芽生えた程度。

だから、間違った解釈、不適切な表現をしているかも知れません。

ですから、そのような点を注意して読んでいただければ、幸いです。

 

【追記】

作品は古いものですがこめられたメッセージは普遍です。

いろあせない作品だからこそ十数年経過しても公開しています。

 

【履歴】

初版 2002.08.15

改訂 2002.10.13

二版 2002.10.17

追記 2019.01.27

 

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ヨセフの悩みと決心

  ヨセフは、マリアには村の外に好きな男性がいると思い、身を引こうと決心した。

そして、マリアが姦淫罪で死刑にならないように、その罪をかぶろうと考えた。

 

  それは、今から六か月前のことである。

マリアは日が沈む頃、ヨセフの仕事現場に迎えに行くのが日課だった。

ヨセフは仕事が終ると、マリアと一緒に話しながら会堂に行き、終の祈りをしたあと、

それぞれの家に帰るののが日課だった。

  マリアが13歳の誕生日、ヨセフとの婚約パーティが華やかに行われた。

それから、7日後、いつものようにヨセフとマリアは、終の祈りをしに会堂に行った。

その日に限ってヨセフが帰ったあとも、マリアは一人会堂に残り祈っていた。

そのとき、天使ガブリエルがマリアの前に現れ、受胎宣告を行い、マリアは身ごもった。

そして、マリアは、親類のエリサベトが身ごもったことも伝えられた。

天使ガブリエルが去った後、マリアは急いで家に帰り、旅支度をした。

マリアは、はやくエリサベトに会い、挨拶をしたいと思ったからである。

  次の日、日が上る頃、マリアは急いで起き、エリザベトの家に旅立った。

村を出る前、マリアはヨセフの家に立ち寄ったが、ヨセフは出かけた後だった。

その日の日が沈む頃、ヨセフはいつものようにマリアが来るのを待っていたが来なかった。

そのため、ヨセフは、帰りにマリアの家に立ち寄り、マリアのことを尋ねた。

そして、ヨセフはマリアが急いで旅立ったことを知った。

 

  マリアが村を出て、三か月後の日が沈む頃、ヨセフの仕事現場に、マリアが現れた。

ヨセフは、仕事を早目にきりあげ、マリアと話しながら、会堂に行った。

会堂で、マリアはヨセフに、天使の受胎宣告をありのまま話した。

しかし、ヨセフはその話を信じなかった。

マリアのお腹は、まだ、大きくなっていなかったからである。

  それから、いく日も過ぎ、マリアのお腹が目立つようになって来た。

マリアは、村人に、天使の受胎宣告の話をしたが、

村人は、神の祝福でヨセフの子供を身ごもったのだと、間違った理解した。

ヨセフは、マリアが話した天使の受胎宣告を理解していたが、

信じたい気持ちと、マリアを疑う気持ちがあった。

ヨセフは、マリアには村の外に好きな人がいて、マリアが村をあけた3か月間、

その人と一緒に過ごし、そこで身ごもったのではと、疑う気持ちもあった。

ヨセフは、とても、悩んだ。

マリアが他の男性の子供を身ごもっていたら、

神の定めた律法により、姦淫罪で死刑にしなければならないからである。

マリアのことを信じたい、しかし、天使の受胎宣告は、とても信じれる話でない。

それがヨセフの気持ちだった。

ヨセフは、マリアを避け、そして、仕事も休みがちになり、会堂にも行かなくなって、

村人や家族を避け、一人、家で悩むことが多くなって来た。

  マリアは、ヨセフが悩んでいることに気が付いて、ヨセフに会おうとした。

しかし、マリアが話合おうとしても、ヨセフは拒んだ。

マリアは、会堂や家で、ヨセフが天使の宣告を受け入れるように祈った。

そして、マリアも、ヨセフと同じように、外に出ず、一日、家で祈っていることが多くなった。

 

  三か月あまり悩み、ほとんど眠れなかったヨセフは、ついに決心した。

ヨセフは、マリアが村の外に好きな男性がいるなら、身を引こうと決心した。

そして、マリアが姦淫罪で死刑にならないように、その罪をかぶろうと考えた。

ヨセフは、もし、マリアを離縁したら、村人が、

「ヨセフは、婚約中のマリアに手を出して身ごもらせたのに、一方的に離縁した。

ヨセフは、自分のことしか考えない身勝手な人間だ。 マリアがとてもかわいそうだ。」

と、自分を責めるだろう。

だけど、村人はマリアに同情し、晴れて、村の外の男性と一緒になれるだろう。

ヨセフは、そう考えた。

ヨセフは、神に、マリアの罪の許しを祈り、同時にマリアへの神の罰が

自分に降り掛かるように祈った。

そして、明日、日が上る頃、マリアの家に行き、離縁して、慰謝料と養育費の相談をしよう。

ヨセフは、そう考えて、眠りについた。

ヨセフは久しぶりにぐっすり眠ることができた。

  その夜、ヨセフの夢の中に、主の天使が現れ、マリアが話したことが真実だと悟った。

そして、日が上る頃、ヨセフはマリアの家に急いで行った。

そして、ヨセフはマリアの両親に言った。

「マリアの腹が大きくならないうちに、マリアと結婚式をさせてください」と。

 

【履歴】

初版 2002.05.03

二版 2002.10.14

校正 2019.01.27

 

【参考】

書籍「主イエスの生涯 上」 著者:加藤常昭 発行所:株式会社教文館

 

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イエスの覚醒

  ヨセフは、イエスが20歳のとき、イエスとマリアに見守られながら、

眠るように息を引き取っていた。

イエスは、ヨセフのあとを継ぎ、大工として家族を支えていた。

そして、安息日の土曜日、イエスは会堂で先生として、律法や聖書について教えていた。

イエスは、小さい頃から、律法や聖書の成績が良かったからである。

しかし、イエスは、まだ、自分が救世主(*1)であることを、知らなかった。(*2)

まだ、時が来ていなかったからである。

 

  イエスが29歳の秋、ナザレに、あるうわさが流れた。

「救世主がベタニアに現れた」と言う、うわさであった。

そして、その救世主の名前は「ヨハネ」であるとうわさされていた。

それを聞いたマリアは、イエスの時が来たことを感じた。

マリアはエリサベトの子供がヨハネだと知っていたからである。

しかし、マリアも亡きヨセフも、まだ、イエスに、天使の受胎宣告の話や

ヨセフの夢に現れた天使の話を、話していなかったのである。

  マリアは、イエスが仕事から帰ると、天使の受胎宣告やヨセフの夢に現れた天使の話をして、

イエスこそが神から特別の使命を受けた救世主であると説明した。

イエスは不思議と受胎宣告を疑わなかった。 それより戸惑いがあった。

イエスは、まだ、「救世主はイスラエルの民をローマ帝国から武力で解放する」と

信じていたからである。

これは、マリアもイスラエルの民も同じことを信じていた。

そのため、イエスは、自分がローマ帝国の軍隊と武力で戦うことに戸惑いがあった。

イエスは、聖書を読み返し、救世主について何が書いてあるか調べなおした。

 

  イエスが30歳の春、パレスチナにも、暖かい日が来るようになった。

  ヨハネは、救世主が現れるのを待ちながら、教えをのべ伝えていた。

  イエスは、いまだに、ナザレで大工をしていた。

イエスは聖書に書かれていたことから救世主の使命と運命を理解した。

しかし、イエスにはこの運命を受け入れるべきか迷いがあった。

そして、同時に、「なぜ、私が救い主なのか」と戸惑う気持ちもあった。

そんな気持ちを察したマリアは、イエスに話した。

「お母さんが、受胎宣告を受けた時、なぜ、選ばれたか信じられない気持ちや、

お父さんに信じてもらえるか不安な気持ちがあったの。

しかし、天使は言われたの、『主はあなたと共におられる』と。

だから、お母さんは受け入れたの。

もし、悩みがあるなら、一緒に歩んでおられる主に打ち明けてみたら。」

マリアの言葉で、イエスの迷いが完全に晴れたわけではなかった。

ただ、ばくぜんとだが、イエスはふっきれた気持ちだった。

そして、ベタニアにいるヨハネのところに旅だつことを決めた。

 

  イエスがベタニアに着くと、ヨルダン川のほとりに行った。

そこには、ヨハネの洗礼を受けるために多くの人が並んで、長い列を作っていた。

イエスもその列の最後に並んだ。

  数日後、イエスの順番になっていなかったが、ヨハネに見えるところまで来ていた。

ヨハネは、列に並んでいるイエスを見つけると、駆け寄って行き、言った。

「なぜ、ならばれていらっしゃるのですか? 早く、私たちに洗礼を授けてください。」

イエスはお答えになった。

「私を何者だと思って言っているのか?」

ヨハネは答えた。「救世主でございます。」と。

イエスはそれをお聞きになり、述べられた。

「その答えは正しい。 だから、今は止めないで欲しい。

正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだ。」

ヨハネはそのお言葉に従って列の先頭に戻った。

そして、列の順番どおりに洗礼を授けていった。

イエスの順番がまわって来たとき、ヨハネは「本当によろしいのですか。」と言った。

イエスは無言だった。

ヨハネは、イエスに水で洗礼を授けた。

すると、イエスに神の霊が鳩のように降って来た。

そして、天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と周辺に響いた。

これは「イエスは神から特別な使命を帯びている。」と言う意味でもあった。

この言葉を聞いた周りの人々は、「この人は、どんな方なのか。」と、うわさした。

 

  イエスは、この洗礼と、40日間の苦行をとおし、神に深く結ばれていった。

そして、イエスは、宣言した。

「私は、神から特別な使命を受けた、油注がれた者。今、その使命がはっきりわかる。」と。

「その使命」、それがイスラエルの民が期待する使命と違うことを知っていたのは、

イエスだけだった。

そして、そのことが、のちにイエスを十字架にかけることなるのであった。

 

*1 救世主・・・ヘブライ語ではメシア。ギリシャ語ではキリスト。

    当時、イスラエルの民(ユダヤ人)はローマ帝国の支配下にあった。

    イスラエルの民はいつか救世主があらわれローマ帝国の支配から解き放してくれると信じていた

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*2 イエスは自分が救世主であることを知っていたのか?知らなかったのか?

    ルカ福音書 2.41~2.50「学者との問答」に書いてある12歳のイエスは、

    すでに知っているような記述になっている。

    しかし、解釈や翻訳によっては、まだ、知らなかったともとれる。

    そのため、この物語では、知らなかったとする説を採用した。

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【履歴】

初版 2002.05.05

改訂 2002.10.14

校正 2019.01.27

 

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神への語りかけ

  日が上りかけた頃、イエスはひとり、宿を出て、山に登られた。

弟子たちは、イエスが出ていかれたことも知らず、宿で寝ていた。

  山に登られると、イエスは祈りはじめた。

そして、人間・イエスとして、神に話し掛けられた。

「パパよ。 私は、やっと、すべてを受け入れるまで成長しました。

宣教をはじめた頃、私は、まだ、弱く、不完全な者でした。

そのころの私は、まだ、パパの代弁者に過ぎなかったと思います。

しかし、パパは、私を導き、より強く、より完全な者として下さいました。

今の私は、パパの代弁者としてだけではなく、よりパパに近い存在になれたと思います。

すべては、パパの導きのお影です。

私は、これから、エルサレムに行き、聖書の預言を完成させます。

パパよ。 はっきり言って、怖いです。 恐ろしいです。

しかし、今の私は、それを受け入れることができるでしょう。

あと、7日もすれば、あなたにお合いできると思います。

そろそろ、弟子たちが起きる頃なので。

  イエスが、公になった3年間、

それは、イエスがより完全になるための準備期間であった。

そして、イエスが、本当に、完全になれたのは、7日後の十字架の上であった。

人間は、神の導きがあって、はじめて成長できる。

人間は、神を信じてこそ、はじめて不可能を可能にできる。

人間は、神の助けがあって、はじめて使命を背負うことができる。

イエスは、このことを、公の3年間を通して、語られたのである。

 

【履歴】

初版 2002.07.23

 

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偶像を売る青年

  イエスがある異邦人の村にお入りになると、

町の入り口でモーゼやイザヤの像を売っている青年がいた。

イエスは、その青年を見ると、弟子たちにお尋ねになった。

「あそこで、青年が偶像を売っている。 あれは十戒や律法にかなうことか。」と。

弟子たちはこぞって、

「先生、偶像を売るのも、崇拝するのも、モーゼの十戒や律法に違反します。」と言った。

それをお聞きになり、イエスは仰った。

「その答えは正しい。 しかし、あなた方は、見ていても聞いてはいないのか。

『この像を見て、神を思い出して下さい。モーゼやイザヤに神への取り次ぎをお願いしてください。』

と叫んでいる青年の声が。

はっきり言っておく、肉体は誘惑に弱いものだ、

だから、偶像を崇拝してでも誘惑に打ち勝つ者になりなさい。」

これを聞いて、弟子たちは、十戒や律法を守らなくても罪にならないのだろうかと議論しはじめた。

それをお聞きになったイエスは、弟子たちに問いかけられた。

「十戒や律法は何のために存在しているのか。」

弟子のひとりが答えた。 「神とともに歩み。救われるためです。」と。

イエスはそれをお聞きになり仰った。

「その答えは正しい。神とともに歩むために偶像を利用するのもひとつの手段である。

私は、罪に定めるために来たのではなく、救うために来たのを忘れてはいけない。」

弟子たちは、そのお言葉を聞いて、自分たちの議論が無意味であったことを悟った。

 

【履歴】

初版 2002.07.23

改訂 2002.10.15

校正 2019.01.27

 

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敵を憎まず裁くな

イエスは敵を愛しなさいと説教をした。(*1)

それを聞いた群衆の一人が言った。

「先生、自分の身を守ることは、いけないことでしょうか?」と。

イエスは仰せになった。

「もし、人が殺されそうになっていれば、それを助けるのは正しいことだ。

しかし、助けるために殺してはいけない、手や足を狙いなさい。

ただ、誤って殺害しても、私はあなたを責めはしない。」

そして、イエスは続けて、仰せになった。

「もし、人が殺されていたら、あなたたちはどう行動するのか?」

群衆の一人が答えた。

「私なら、その殺人者を殺したいです。

しかし、逃げれないように、手や足を狙います。」と

イエスは仰せになった。

「その判断は正しい。しかし、もし、殺されたのが家族でもそうするだろうか。」

群衆の一人が答えた。

「いいえ、私は、その殺人者を殺します。」と

イエスは仰せになった。

「それは素直な気持ちだろう。

しかし、はっきり言っておく、決して殺してはいけないと。

家族の者なら、なおさら、殺してはいけない。

必ず、手や足を狙いなさい。例え、自分を殺そうと向かって来ても。

なぜなら、怒りの感情に任せて行動するのは、

悪魔に心を売り渡すのと同じ事だからだ。

人が罪を犯さないように止めることは、正しいことだ。

しかし、罪を犯した人を裁く権利は神にしかない。」

 

*1 敵を愛しなさいと説教をした

 敵を愛せよ・・・マタイ [敵を愛せよ] 5.43-5.48 [黄金律] 7.12、ルカ [敵を愛せよ] 6.27-6.36

 復讐・・・マタイ [同害復讐法] 5.38-42、ルカ 6.29-30

 人を裁くな・・・マタイ [裁くな] 7.1-5、マルコ 4.24-25、ルカ [人を裁くな] 6.37-42

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*この物語りは、同時多発テロから始まった戦争への意見です。

  きれいごとではなく現実的な答えが聖書にあると思います。

 

【履歴】

初版 2003.01.27

校正 2019.01.27

 

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十字架上の聖戦

  ユダの手引きで、イエスはつかまり、

衆議会の協議により、総督ピラトに引き渡された。

イエスは、総督ピラトに、十字架の刑を言い渡され、

ローマ兵によって、鉄球の付いたむちや葦の棒で、

立つのもおぼつかないほど、いたぶられた。

イエスは、十字架を背負い、ゴルゴダ-意味は「されこうべの場所」-に連れてかれた。

そして、手首にくぎを打ち込まれ、十字架ごと、たて木に固定された。

 

  正午過ぎ、太陽が隠され、だんだん、暗くなり始めた。

それと、同時に、悪が、この世を覆い始めた。

善意の心は隠され、悪意が人々を支配し始めた。

イエスは、十字架の上から、苦しみにもがきながら、神に問い掛け続けた。

  悪の勢力は増大し、太陽は完全に隠された。 この世を真の闇が覆った。

人々は、悪意に支配され、この世を悪が支配し始めた。

イエスにも神の姿が見えなくなり、イエスが探し問い掛けても神は答えなかった。

イエスは大声で叫んだ。

「わが神。 わが神。 なぜ、私を見捨てたのですか。」

イエスは、死の苦しみと深い絶望を、味わっていたからである。

しかし、イエスは、深い絶望の中、神への信頼を忘れず、神に問い掛け続けた。

  悪はこの世をほぼ支配していた。 そして、悪は勝利を確信していた。

しかし、そのとき、イエスは大声で叫んだ。

「父よ。わたしの霊を、み手に委ねます。」と。

すると、天から一筋の光が、イエスを照らした。

そして、太陽は輝きを徐々に取り戻し、人々の善意の心も徐々に取り戻された。

そのことを、十字架の上から、見ておられたイエスは、

「成し遂げられた」と叫んで、息を引き取られた。

 

見物に集まっていた群集は、皆、これらのことを見て、満たされた気持ちで帰って行った。

 

【履歴】

初版 2002.08.15

改訂 2002.10.14

校正 2019.01.27

 

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ルカが語る復活

テオフィロ様、私への手紙、読ませて頂きました。

 

「親愛なるルカ様。

私は、イエスの死と復活を受け入れ、信じています。

しかし、漠然とした疑問を払拭することができません。

イスラエル人は復活信仰があり、復活は受け入れやすいことだと思います。

しかし、私たちローマ人には、復活信仰がなく、漠然とした感覚でしか受け入れることができません。

どうか、私たちローマ人でも理解できる説明をしていただけないでしょうか。」

 

  確かに、ローマ人には、復活は受け入れづらいことだと思います。

それに、蘇ることと、復活することが、違うことも、理解を難しくしていることと察します。

  まず、蘇ることは、死んだ人が、再び、魂を取り戻し、生きた人となることです。

ですから、蘇った肉体には、再び、死が訪れます。

蘇る奇跡は、イエス様をはじめ、使徒たちが、行なったことがあります。

私が送った第一巻(*1)にも、イエス様の奇跡として、

「やもめの息子を生き返させる」(*2)「ヤイロの娘」(*3)などを記述しました。

  それに対して、復活とは、死んだ人の肉体が、天に上げられ、

新しい聖なる肉体に変化し、生き続けることです。

そして、聖なる肉体には、もはや、死は存在しません。

第一巻(*1)の復活後のイエス様の記述を読み返してみて下さい。

「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(*4)

「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、」(*5)

「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(*6)

聖なる肉体は、私たち同様、肉も骨もあり、生きていますが、

私たちには不可能なことも可能にするのです。

 

  テオフィロ様、私たちが信じるべきことは、

『イエス様は生きておられ、私たちと共に歩んで下さっている』と言うことです。

聖なる肉体を持ったイエス様は、その姿をみることも出来ないかも知れません。

また、話し掛けられても、イエス様と気付くこともないかも知れません。

それでも、信じられるのは、『イエス様は聖なる肉体で生きている』と信じているからです。

 

  最後に、テオフィロ様、あなたさまも、御聖体をいたいていると思います。

御聖体は、イエス様の聖なる肉体を表しています。

そこには、「あなたも聖なる肉体をあずかれるように努力しなさい」と言う

イエス様のメッセージが込められているように思えます。

私たちも、聖なる肉体があずかれるように、共に働きましょう。

 

*1  第一巻…『ルカによる福音書』のこと

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*2 「やもめの息子を生き返させる」・・・ルカ 7.11~7.17

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*3 「ヤイロの娘」・・・ルカ8.40~8.42、8.49~8.56

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*4 ルカ 24.31

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*5 ヨハネ 20.19

  ただし、ここは、ルカ 24.36を詳しく記述したとみるべきだろう。

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*6 ルカ 24.39

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*この物語りは、架空のお話であり、実際には存在しない手紙です。

 

【履歴】

初版 2002.10.10

改訂 2003.01.27

校正 2019.01.27

 

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不思議な漁

イエスの死後3日たったエルサレムは、イエスの復活の話題で騒然となっていた。

弟子たちは、律法学者や大祭司に捕まるのを恐れ、民家に隠れていた。

イエスの死後5日後、弟子たちは、エルサレムを離れ、地方に身を隠す相談をしていた。

そこに、聖母マリアが訪ねて来た。

ドアをたたき、「ナザレのマリアです」と言われた。

弟子たちは、ゆっくりドアを開け、聖母マリアを家の中に入れた。

ペトロは言った。

「マリアさま、イエスさまを見殺しにしてしまいすみません。

私たちは、怖かった、十字架にかけられることが。

今、イエスが復活したとの噂も流れています。

もし、それが真実でも私たちの前には、現れないでしょう。

なぜなら、私たちは、イエスを見離したのですからです。

私たちは、律法学者や大祭司から狙われています。

エルサレムを離れ、地方で隠れて暮らすつもりです。

マリアさまも、私たちのことを忘れて、平安にお暮らし下さい。」

聖母マリアは言われた。

「息子イエスが処刑されたことは、とても、悲しく辛い体験でした。

十字架の上から、だれかに助けてもらいえないかとも思いました。

しかし、時間が経つにつれ、イエスの残した言葉が理解できるようになって来ました。

イエスは言っていました。

『母上、私は、十字架にかけられ、処刑されます。

母上にとり、それは、悲しく辛いことだと思います。

しかし、ご存知のはずです。私が神の子であることを。

今、悪魔がこの世を誘惑し、悪の世界を完成させようとしています。

私は、その誘惑に負けず、死を持って打ち勝ちます。

死は、犠牲でも敗北でもありません。新しい時代の幕開けです。

これが、神の子の使命なのです。

最後に、これだけは、覚えていてください。

死後、3日後に復活することを。』」

そして、聖母マリアは、自分の身に起きた受胎宣告と、夫ヨセフに現れた天使の話をした。

ペトロは、その話に感心しながら、次のように話した。

「私は、神の子イエスを見離してしまった。自分も一緒に十字架にかかれば良かった」と。

聖母マリアは言われた。

「あなたたちは、イエスから、復活後のことについて、何か言われていることはないのですか」

弟子の一人が言った。

「『ガリラヤで待っている』と言われました」

聖母マリアは言われた。

「あなたたちは、私やイエスに負い目を感じているかもしれない。

しかし、すべては、神の働きなのです。

今、あなた方が生きていると言うことは、まだ、使命が残っている証拠ではありませんか。

私は、あなた方を恨んでいません。それは、復活したイエスも同じだと思います。

恐れず、ガリラヤに行きなさい。」

弟子たちは、まだ、すべてを信じ切れなかった。

しかし、話し合いの末、ガリラヤに行くことにした。

 

ガリラヤに着いた弟子たちは、漁師に戻って、身を隠すつもりだった。

「イエスが神の子であった。」

そのことは、なんとなくわかっても、何をすれば良いかわからなかった。

だから、漁師に戻り、生計をたてるつもりだった。

夜、弟子たちが船を出し、網を投げたが一匹も取れなかった。

朝方、イエスが岸に現れた。しかし、弟子たちは、イエスと気付かなかった。

イエスは言われた、「船の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れる」と

そこで、弟子たちは、言われたとおりにすると、魚が多く捕れ、網を引き上げられないほどだった。

そのとき、弟子たちは、岸の方がイエスだと気付き

ペトロは湖に飛び込み、イエスのところに向かった。

他の弟子たちも、網を引きながら、舟で、イエスのところに向かった。

陸に上がると、イエスは火を起して待っておられた。

弟子たちが集まると、イエスは「さあ、朝の食事をしよう」と言われた。

弟子たちはだれも、「あなたどなたですか?」とは、尋ねなかった。

弟子たちは、主であることを知っていたからである。

 

ペトロは、このときを思いだし、次のように回想している。

  船から、イエス様をみたとき、素直にうれしいと思った。

  「見殺した」負い目など、そべて、わすれていた。

  単純に、イエス様のそばにいたい。その気持ちだけだった。

  私にとり、復活のよろこびは、イエスが死者のうちからよみがえった喜びでない。

  また、イエス様と歩むことができる。そのよろこびである。

  人間は、また、イエスを裏切ることがあるだろう。

  しかし、イエスは、いつでも、笑顔で迎えてくれる。

  イエス様が、私たちを、笑顔で迎えてくれたように。

 

*この物語りは、聖書をもとにした、架空のお話です。

 

【履歴】

初版 2003.04.10

校正 2019.01.27

 

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外伝:電車で新宿に向かう

イエスと弟子たちは新宿に向かうために電車に乗られた。

電車の席はいっぱいで、立って新宿へ向かわれた。

新宿へ向かう途中、登戸を過ぎたあたりで、

弟子のひとりが携帯電話を取り出し小声で話し始めた。

新宿での公演の打ち合わせをするためだった。

そのとき、たまたま、同じ車両に乗り合わせていたファリサイ派の人がイエスに近づき、

「弟子のひとりが、携帯電話で話していますが、なぜ、とがめないのですか」と

大声で問いただした。

それを聞いたイエスは、「なぜ、とがめる必要があるのか?」と聞き返した。

ファリサイ派の人は

「車内アナウンスで、携帯電話での会話はご遠慮くださいと言っているではないですか」と

声を荒げて答えた。

それに対して、イエスは

「弟子は、マナーモードにしていたし、会話も小声で話していた。

それなのに、なぜ、あなたは周りの迷惑も考えず大声でとがめるのですか」

それを聞いたファリサイ派の人は、周りを見渡し、小さな声で

「マナーで決められたことですから、守るものなのですよ」と言って

自分の座っていた席に戻った。

 

新宿に着かれたイエスは歌舞伎町を過ぎ、花園神社に行かれた。

そこで、腰をおろし、話はじめた。

「この世には、いろいろな規則がある。」

「法律があり、道徳があり、マナーがあり、教会の戒律がある」

「しかし、そう決まっているから守るのは、間違えである」

「なぜ、そう決まっているか考え、人間が本当に守るべきことを守りなさい」

弟子のひとりが言った。

「法律・道徳・マナーに教会の戒律と、たくさんありすぎて考えきれません。」

すると、イエスは言われた。

「思い、ことば、行いが他人に不快感を与えないか考えなさい」

「他人や自分を愛し、愛の実践によって、さまざまな決まり事が、守れるようになりなさい」

「決して、いろいろな決まり事に振り回されてはいけない」

車中、携帯電話で話していた弟子が言った

「主よ、私は罪を犯したのでしょうか」

イエスは言われた

「あなたには愛がある。自分を信じて行動しなさい」と

 

*この物語りは、聖書に似せて創作した、架空のお話です。

 

*ファリサイ派について

  ファリサイ派は聖書で出て来る悪役です。

  しかし、現代までつつく、ユダヤ教の正当な派閥です

  ここに出てくるファリサイ派は、

  規則やマナーや道徳などを守ることに正義感を持ち

  臨機応変な対応が出来なくなっている

  そんな姿を象徴しているのです

 

【履歴】

初版 2004.11.06

校正 2019.01.27

 

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外伝:花園神社で

新宿に着かれたイエスと弟子たちは花園神社に行かれた。

イエスが花園神社で説教をされていると、包丁を持った男がやってきてイエスを殺そうとした。

しかし、弟子たちが、すぐに気づき、その男を取り押さえた。

男は大声をあげて言った。

「お前(イエス)が現れて2000年間、お前の名の下にどれだけの血が流されたか知っているか。

お前の玉座が地の池に浮いていることを忘れるな。(*1)

これを聞いた弟子たちは、激怒して男を殴り殺そうとした。

そのとき、イエスは言われた。

「男を殴るのはやめなさい。その男の言うことは正しい。

男よ、すまなかった。私もこのことには心を痛めていた。」

しばし、沈黙が流れ、イエスは続けて言われた。

「私が残した教会は、人間と同じ弱さを持っている。

だから、人間と同じように過ちを犯す。

だけど、恨んではいけない。私たちは互いに許しあわないといけないからだ。

人の罪を許すように教会の罪も許さないといけない。」

ひとりの弟子がイエスに尋ねた。

「先生、それでは、私たちは何を信じればよろしいのですか。」

イエスはお答えになった。

「私の教えや、あなた方の心の中の教会に従いなさい。

愛に従った生き方をしたものは天国の門をたたき

愛に従わない生き方をしたものは地獄の門をたたくだろう。」

男は言った。

「私は違っていました。私も人を許せるような人になるように努力します。」

弟子たちは男を許し解放した。

 

*この物語りは、聖書に似せて創作した、架空のお話です。

 

*1 銀河英雄伝説(ビデオ版)から引用

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【履歴】

初版 2007.03.07

改訂 2007.03.18

校正 2019.01.27

 

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